上野千鶴子氏の東京大学入学式祝辞について私も考えてみた

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平成31年度東京大学学部入学式 祝辞 | 東京大学

 

「がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。
あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。」

 

内容に賛否両論あることは理解した上で、自分は強烈に素晴らしいと思いました。

特にこの部分。

胸を打つ。

おそらく上野千鶴子さんの思想信条に思うところがあったという人でも、この祝辞にはグッとくる方が多かったのではないかな、と勝手に想像。

 

反発の多くは学生さんたちのようなので、「痛いとこ突っ込まれた」「図星だった」「言われたくないことを言われた」という気持ちの表れかと。

まさにそのことが上野さんが問題提起されたことそのものですよね。

 

こういう祝辞って心に残るものはほとんどないけれど

スピーチが持つ意味、のようなものを改めて感じてしまった。

 

もしかしたらフレッシュな学生さんや挫折をあまり知らない優秀な方には「今」刺さらなかっただけなのかもしれない。

だいぶ未来になってこの言葉を理解できる時が絶対に来る、

来てほしい、

来させようよ!

 

って思ったのでした。

 

対する世間の反論

この祝辞に対しての反論の中には「性差別があるのはそのとおりだけれど、言いっぱなしでじゃあ何をしたらいい、というメッセージがない」ということを指摘していた例があった。

 

でも、私はその反論に関して

「何をしたらいいか」言われないと動けない大人でいいのかな? 「こうしなさい」と言われないといけないの?「こうしろ」と決めつけるのがよいスピーチ?と疑問に感じました。

 

そして、ごく表面の言語的意味という皮の部分だけなぞって自分が正しいみたいにマウンティングするためのものなのかよ! って正直イラっとしてしまった。

 

「ことば」って、それだけの役割じゃない。

 

上野さんは、ご自身の専門分野に関わるところを挙げて問題提起をした。

「問題提起をします。その上でどうするのかあなたが主体的に考えて解決してほしい」ということをいいたかったのではないかと。

 

ひとつの正解が明らかになっているわけではない問いにぶつかっていくということが研究であり、学問そのものではないでしょうか。

 

ある程度「勉強」というものが「与えられたもの」であった高校生から、

自由に学び悩み考えることができる大学生になる人たちです。

 

「~しなさいね。」ということばが

果たして彼ら新入生への正解となり得るのでしょうか。

 

私個人的な意見としては、

祝辞の前半は性差別やフェミニズムに関してかなり直接的に述べているような形になっているけれど、後半はフェミニズムだけとは限らずこれから待ち受けている未来のあらゆることについて広く抽象的な形で語っていらっしゃるのではないかと思いました。

 

誰が発しても変わらない、

誰に発しても変わらない、

なんとなく無難な祝辞ならばよかったのか。

 

私はそうは思わない。

 

上野さんが語る意味を、

東大生に向けて語る意味を、

このくらい強烈に表現しなければ誰にも刺さらなかったと思う。

 

受け取る側は

その強い具体性を自分の脳と感性で抽象化させて、

自分の未来のあらゆる場面で糧とすべきなのだと勝手に考えています。